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【RTI】声で伝える美術館(第十五回)
【RTI】声で伝える美術館(第十五回) -
【RTI】声で伝える美術館(第十四回)
【RTI】声で伝える美術館(第十四回) -
【RTI】声で伝える美術館(第十三回)顔水龍《蒙特梭利公園》
顔水龍(1903~1997)
台湾の画家、民俗工芸研究者、芸術教育者。台湾南部・台南の下営で生まれる。台南州の教員養成所を出てから1918年に母校の下営公学校に戻って教師となる。1920年に美術を学ぶため日本に渡り、1922年には日本の東京美術学校西洋画科に合格、藤島武二と岡田三郎助の指導を受け、藤島の注意深い画風と岡田の工芸品のコレクションの影響を受けた。1929年にはフランス留学。フェルナン・レジェなどの影響を受けた他、カンヌで知り合ったキース・ヴァン・ドンゲンの装飾的な色彩を受け継いだ。1933年からは日本・大阪の会社で広告デザインを手がけるようになり、台湾初のプロの広告デザイナーとなった。1944年に台湾に戻り、台南工業専門学校(現・国立成功大学)でデッサンや美術工芸史を教えた。1934年から1937年までは楊三郎、廖継春らと台陽展及び台陽美術教会を設立。1940年には台湾造形美術協会も組織した。1960年から1968年までは国立台湾芸術専科学校(現・国立台湾芸術大学)などで教鞭をとった。1950年以降、台湾の風景などを描くようになった他、晩年は原住民族を題材にした絵画を多く生み出した他、1961年からはモザイク壁画やレリーフでも著名な作品を制作した。また、企業のトレードマークを多くデザインしたことでも知られ、台湾中部・台中市の著名な菓子店、太陽堂餅店のマークは顔水龍が手がけたもの。なお、『モンスリ公園』(1931)と『リュクサンブール公園』)(1932)はフランス留学中の作品で大変貴重なもの。『モンスリ公園』は、フランスのサロン・ドートンヌで入選を果たした、台湾の美術史上重要な作品である。 -
【RTI】声で伝える美術館(第十二回)-廖継春-芭蕉の庭
廖継春(1902-1976)
台湾の画家、美術教師。1902年に台湾中部・台中豊原に生まれた。1918年に台北国語学校を卒業。翌年の1919年、台北市の新公園(現在の二二八記念公園)で初めて油絵を鑑賞したことをきっかけに美術に興味を持ち、絵画の世界に足を踏み入れることになった。1922年からは豊原公学校で教鞭をとり、1924年には日本に渡った。日本では東京美術学校図画師範科で学び、1926年に同校を卒業して台湾に戻った。そして1927年に開催された第一回台湾美術展覧会において、廖継春は『裸女』で特選に輝いた。さらに1928年、廖継春は『有香蕉的庭院(芭蕉の庭)』で帝国美術展覧会に初入選。台湾の画家の作品が帝国美術展覧会に入選したのは二度目だった。初めて入選したのは陳澄波の『嘉義街外』(1926)。廖継春は台湾美術展覧会と台湾省全省美術展覧会の審査員も務めた。 -
【RTI】声で伝える美術館(第十一回)林玉山《四君子水墨画》
台湾中南部・嘉義出身、本名は林英貴。日本東京の川端画学校で絵画を学び、岡村葵園、結城素明、平福百穂など四条派の写生に対する考え方の影響を受けた。1935年に再び日本に赴き、堂本印象画塾で学んだ。1927年、台湾の女流画家・陳進や郭雪湖と共に、第一回台湾美術展覧会に入選、「台展三少年」と呼ばれた。林玉山はその後、数多くの嘉義地域の画会を指導し、地方における絵画発展に大きな貢献を果たした。『四君子水墨画』は梅、蘭、竹、菊の四枚の屏風からなるが、このうち「菊」のみが1925年に描かれ、「立軒」の落款が入れられた。これら「立軒」の落款があった初期の作品の画風は、台北市立美術館に収蔵された引き出し付きの机『林玉山畫花卉桌櫃』に林玉山が自ら描いた、四君子の絵に非常に似通っている。この引き出し付きの机は、林玉山の父親が経営していた画材店の正面にあった家具店がクスノキを原料に造った家具で、1928年、林玉山が夫人と結婚した際の、夫人の嫁入り道具である。偶然にもこの机に描かれた四君子のうち、「菊」のみが1925年に描かれているとの落款があった。四君子に関する作品は当時、絵画の学習者にとっては入門といえる存在であり、賞賛あるいは祝賀の意味を持つことから、非常に実用性のある題材といえる。この二つの作品の画風の違いからは、林玉山の初期の画風において、当初、用心深く描いていたものが、次第によどみなく描かれるようになる、その変化を探ることが可能となっている。 -
【RTI】声で伝える美術館(第十回)陳進《野辺》
陳進(1907~1998)
別名・陳進子。日本占領時代から第二次世界大戦後の台湾における著名な画家。女性画家の第一人者。地方の名家出身のため、後に「令嬢画家の代表的な人物」と呼ばれるようになった。1907年に台湾北部、現在の新竹市に生まれる。1922年に台北州立台北第三高等学校に入学、美術教師の郷原古統の指導を受ける。卒業後は日本・東京の女子美術学校の日本画師範科に入学。1927年に台湾美術展覧会「東洋画」部門で入選し、林玉山、郭雪湖と共に「台展三少年」と呼ばれる。1934年には長姉の陳新をモデルに描いた『合奏』で日本の第15回帝国美術院展覧会(現在の日展)に入選。台湾出身の女性画家として同展初の入賞を果たした。1934年から1937年までは台湾南部の高雄州立屏東高等女学校で教鞭をとった。 -
【RTI】声で伝える美術館(第九回)黄土水《台湾近代彫塑の先駆》
黄土水(1895~1930)は台北市の艋舺に生まれた。1915年に東京美術学校彫刻科木彫部に入学、1920年に石膏像「山童吹笛」で日本の「帝展」に台湾の人として初めて入選した。黄土水は台湾の民間芸術から始め、日本で彫刻の訓練を受け、塑造と石彫の技術は独学で習得、さらにフランスのロダンの前衛的な彫刻思想にも触れた。黄土水は才能にあふれ、造形の技術も成熟、レリーフと立像のどちらも手がけ、どんなものでも生き生きと再現した。1923年からは水牛の動きや表情の研究に力を入れた。それは水牛が台湾の地方の姿を現すのに最適な素材だったから。1930年の「水牛群像」(別名:南国)は黄土水が命を賭けて創り上げた遺作。この石膏で作られたレリーフは田舎の真夏の風景を描いている。バナナの葉の影で3人の裸の牧童とおとなしい5頭の水牛がのんびりとしている姿で、美しくリズム感のある曲線がバナナの葉から男の子の体の輪郭へとつながり、さらに水牛の背に移っていく。故郷の田園の美しい景色であるばかりでなく、芸術家が追い求める理想的な美への固い信念が込められているのである。
台灣近代雕塑先驅--黃土水 播出時間: 2017-08-29 07:30:00 主持人: 朱家綺
黃土水 (1895-1930) 生於台北艋舺,1915年進入東京美術學校木雕科就讀,1920年以「山童吹笛」石膏人像,成為入選日本帝展的第一位台灣人。黃土水由台灣民間傳統藝術入手,除了接受日本學院雕刻訓練,自學塑造及石雕技術,也接觸法國羅丹前衛雕塑觀念。黃土水天份極高、造型功力純熟,浮雕圓雕皆能入手,各色物像也都表現得栩栩如生。 自1923年起,黃土水就認真進行水牛動作、神態的深入研究,因為牠是表達台灣鄉土風情的絕佳素材。1930年「水牛群像」(南國)則是黃土水嘔心瀝血的絕筆鉅作,這件石膏淺浮雕,描寫盛夏鄉間香蕉樹下,三個裸體牧童與五隻溫馴水牛的恬靜嬉遊,優美而充滿韻律的弧線,從蕉葉跳動到小男孩的身形輪廓,並且移轉至牛背上,這不但是家鄉田園的美好景致,也封存著藝術家追尋理想之美的堅定信念。 -
【RTI】声で伝える美術館(第八回)木下静涯《南国初夏など》
木下静涯 (1887-1988)
木下静涯は1887年、日本の長野県で生まれた。1918年に「芝皓会」の友人と共に東京を出てインドに向かう途中で立ち寄った台湾で暮らし始め、1923年には台北の郊外、淡水に定住。「世外荘」と名付けられた自宅は台湾北部の重要な芸術サロンのように、台湾や日本の芸術家、文化人が頻繁に交流する場となった。
木下静涯は絵を生業としたが、塾を開くなどして指導することはなかった。画風は木下自身のように、写生と文人としての趣を兼ね備えたもので、繊細かつ水墨の味わいが深かった。1927年から1943年まで台湾の公式な展覧会における東洋画(日本画)部の審査員を1度も休むことなく16回にわたって務めた。
また、郷原古統と共に台湾日本画協会や栴檀社などの団体に参与したが、郷原が1936年に日本に帰国すると、台湾の画壇における木下の地位はより重要となった。1946年に日本に引き揚げるまで、台湾の絵画界が「地方としての色彩」を探っていく道筋とその発展の軌跡の上で、先導者としての重要な役割を果たした。1988年、「好日好日又好日」という句を詠んでまもなく死去した。享年102歳だった。 -
【RTI】声で伝える美術館(第七回)郷原古統《麗島名華鑑》
郷原古統(1887年-1965年)
●本名:堀江藤一郎
●日本長野県松本市出身
●日本の画家、日本占領時代の台湾における著名な芸術教育者でもある。
●石川欽一郎、塩月桃甫、木下静涯ら当時の著名な画家と台湾で「台湾美術展覧会」を創設した。
●著名な弟子として、陳進、林阿琴、邱金蓮らが挙げられる。
日本長野県松本市出身の郷原古統(本名:堀江藤一郎)は幼いころ、おじの養子となり、郷原と名乗ることになった。日本の画家だが、1917年に台湾に渡り、台湾の芸術教育に取り組んだ。郷原古統は日本の帝国美術展覧会に倣って、石川欽一郎、塩月桃甫、木下静涯ら画家と共に、1927年台湾で台湾美術展覧会を創設し、審査員も務めた。1932年には「栴檀社」を主宰し、多くの画家を育てた。1936年に父の住む兵庫県芦屋市に戻った。著名な弟子は陳進、林阿琴、邱金蓮、周紅綢など。台湾の画壇に大きな影響を及ぼした日本の画家の一人だった。 -
【RTI】声で伝える美術館(第六回)塩月桃甫《女子像》
塩月桃甫(永野善吉)(1886-1954)
日本・九州の宮崎県出身。東京美術学校図画師範科卒業。1921年に来台して1946年に引き揚げるまで教鞭をとった。20年あまりにわたって、台北第一中学及び台北高等学校の美術教師を務めたばかりでなく、超然とした態度で自由な創作理念を広めた。塩月は美術活動に情熱を注ぎ、台湾における公式な美術展覧会の審査員を16回にわたって務めた他、学校と絵画教室では学生の指導にあたり、日本占領時代の台湾における西洋画壇の重要なリーダーとなった。台湾での日々を通じて、塩月は台湾の原住民族をテーマに取り上げるのを特に好み、一人を描いた人物画、あるいは大型の祭典を描いた作品のいずれにおいても、異なるエスニックグループの文化が持つ特色に対する芸術家の細やかな観察ぶりを存分に発揮した。特にタイヤル族とパイワン族への造詣が深く、スピーディで大胆なタッチで、赤や黒を基調にその他鮮やかな色を加え、生き生きとした命のエネルギーを際立たせた。しかし、時代の大きな変化に見舞われ、現存する塩月の作品は大変少ない。 -
【RTI】声で伝える美術館(第五回)石川欽一郎《福爾摩沙(フォルモサ)》
石川欽一郎(1871-1945)
静岡県出身。漢学、謡曲などの東方文化を直接学んだ他、英語、西洋画など西洋文化の洗礼を受けた。最初に台湾で暮らしたのは1907年から1916年までで、その間、公務の余暇には洋画の集会を組織し、「番茶会」を発起。それにより台湾在住の日本人に活発な芸術の息吹きをもたらした。
1924年から1932年まで、招きに応じて台湾に二度目の滞在。台北師範学校の美術教師を務め、芸術活動を積極的に提唱した。1927年に台湾初の公式な「台湾美術展覧会」を実現させた功労者、そして審査員の一人である。
石川欽一郎は新聞・雑誌やラジオ放送を通じて、台湾に芸術の優雅な魅力を愛でる気風を広めた。台湾で西洋画を学んだ最初の芸術家たちは、ほとんどが石川欽一郎に啓発された者である。特に当時、日本ではすでに没落気味だった水彩画は、石川の努力によって台湾において活力を取り戻した。石川欽一郎の起こした水彩画ブームと創作理念は、台湾の画壇に深い影響をもたらしたのである。
石川欽一郎(1871-1945),日本靜岡出身,除了親炙漢學、謠曲等東方文化,也接受英語、西洋畫等西方文化的洗禮。1907年至1916年第一次來台,公餘熱心組織洋畫集會,曾發起「番茶會」,藉以提供在台日人活絡藝文氣息。1924年至1932年應邀第二次來台,擔任台北師範學校美術教師,積極提倡藝術活動,是1927年台灣首次官辦展覽「台灣美術展覽會」的推手及評審之一。透過報刊及廣播,石川推廣台灣重視藝術風雅之氣。台灣第一批學習西洋畫的藝術家們,有極大部份是為石川所啟發的學生,特別是當時在日本本土已呈現沒落的水彩畫科,透過石川的努力,重新在台灣這塊土地上呈現躍動的活力,而石川欽一郎的水彩畫風及創作概念,也對台灣畫壇產生深遠的影響。 -
【RTI】声で伝える美術館(第四回)陳澄波《夏日街景》
陳澄波(1895年-1947年)
● 1895年 嘉義(台湾南部)に生まれる。
● 1907年 嘉義公学校(現在の嘉義市崇文国民小学校)に入学。
● 1917年 台湾総督府国語学校公学校師範部卒業。
● 1924年 日本東京美術学校(現在の東京芸術大学)図画師範科に入学。
● 1926年 第七回帝国美術院展覧会(帝展、現在の日本展に相当、10.16~11.20)で入選。台湾の洋画家の入選は初めて。
● 1929年 東京美術学校研究所を卒業。
教育部が中国大陸上海で開催された第一回全国美術展に《早春》、《清流》、《綢坊之午後》を出展。
中国大陸上海の新華芸術大学洋画科で教鞭をとる。
● 1946年 第1期嘉義市市議会議員に当選。
第一回台湾省美術展覧会(省展)の審査員を務めると共に、作品も出展。
● 1947年 「2・28事件」に巻き込まれ、嘉義駅前で処刑。享年52歳だった。
《夏日街景(街頭の夏気分)》は、帝国美術院展覧会における陳澄波二つ目の入選作、自分の故郷、嘉義を題材にした作品でもある。作品の真ん中には嘉義の繁華街にある噴水池が描かれている。この噴水池は現在の嘉義市文化路、中山路、光明路、光華路の交差点に位置する。この一帯は嘉義市西区のビジネスエリアにおける繁華街の一つに数えられており、現在は「中央七彩噴水池」として親しまれている。構図の面白いところは唐突と思われそうな電信柱を作品の真ん中に描いたこと。陳澄波はほかの作品にも電信柱を描き、電信柱は陳澄波の作品に欠かせないアイテムとなっている。その唐突さを和らげるため、陳澄波は電信柱のバックに噴水池を描いた。……
首頁 【RTI】声で伝える美術館